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下記の文は「帰国者の生命と人権を守る会」の三浦小太郎さんが送ってくださった、6月26日の北京での石川一二三さん記者会見の概要です。
ご紹介します。
私は日本に強制連行された朝鮮民主主義人民共和国の国民です。名前はドツウジといいます。
私は1949年10月28日、日本の神奈川県川崎市で父・ドサングアン、母・石川みよ子の三女として生まれました。私は1960年、親と一緒に第48次帰国船で祖国のふところに戻りました。
私がここで言いたいのは、又日本に行くことになった動機と又祖国に戻ることになった事情をお話しようと思います。
私は2003年10月18日、悪い人たちに騙されて豆満江を渡りましたが、待機していた車に強制的に連行されました。数日後、瀋陽の日本領事館に入り、2週間たって日本に行くことになりました。こうして私は2003年11月21日、日本の千葉県松戸市で暮らすようになりました。
子供を5人育てた親として毎日子供のことばかり考えていました。43年間、どんなに辛いことがあっても、子供たちから生きる力をもらい、笑いと幸福を感じました。96,97年は困難な時期も乗り越えましたが、子供たちと別れて暮らすのはとても耐えられないことだと感じました。子供たちと電話の時は、涙で始まり、涙で終わる感じでした。毎晩、涙で夜を送りました。子供たちと孫が幸せに暮らしているという話を聞くたびに、合いたい気持ちはもっと切実になりました。
又軍隊経験を終えて、帰ってきた嫁の婿さんが●●(ここは聞き取れなかった模様)にはいった話を聞いて、早く帰ってその立派な姿を見たかったのです。
一日でも早く子供たちのところに行きたい気持ちは一杯でしたが、中々決心がつかなかったのです。毎日憂鬱で、ぼおっとして、酒と睡眠薬で夜を過ごしました。まだ結婚していない子供たち、お母さんが日本に連れ去られ、心の傷を持って生きている運命、生きている限り、これでは駄目だと重い、とにかく帰ろうと思いました。そして、6月21日、成田空港に迎えに行きました。
日本に行って3年7ヶ月暮らしながら感じたのは、子供のときに暮らしていた日本ではない、日本は変わったということです。今の日本は一つのアパートに住みながら、隣の人とも全然接触もないし、ドアを閉めたら、中に人がいるかいないかもわからない状態です。
昔住んでいた故郷にも行って見ましたが、心は落ち着きませんでした。昔はお互いを理解しあいながら暮らしていたけれど、今の日本は冷たい、氷のようにつめたい感じでした。
テレビで毎日報道しているのは殺人事件、ばらばら事件、親が子供を殺したり、子供は親を殺す事件、老人は一人ぼっちで死んで何日たっても人に知られもしない中、私もたった一人で監獄のような所で暮らしていて、何か起きたら、誰もいないこの国で子供にも会えないまま死んでしまったらどうしようかと思いました。それで、私はこんな生活は人間が生きる生活ではないと想い、3年7ヶ月、毎日、毎年、年をとるのも怖く、死んでも子供のそばで死にたいと想い、今日この場を作ってもらいました。
日本で、ある人は北の子供たちを日本に連れてこないのかと聞きましたが、私は子どもをつれてくるのではなく、自分が帰るといいました。最期に私の人生で曲折多い体験をしながら、心の中で静かに唄っていた歌があります。うまくないのですが、ここで歌います。歌「曲折多い運命」北朝鮮映画『民族と運命』主題歌
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